LOGIN東京第二次奪還作戦から三日後、九条冬真の使者は白旗を掲げてやって来た。
ただし、馬にも車にも乗っていなかった。
朝の監視班から「西側道路に人影あり」と報告を受けた高城が防衛班を配置し、蓮と澪も念のため地上へ出ると、廃墟の道路を一人の女性が歩いてきたのである。年齢は三十歳前後。濃紺の防寒服に小さなリュックを背負い、右手には白い布を巻きつけた長い棒を持っている。銃も剣も見える範囲にはない。
「一人?」
蓮が隣の高城へ尋ねた。
「見える範囲ではな」
「逆に怖くない?」
「俺もそう思ってる」
女性は防衛班が設定した停止線まで来ると、素直に両手を上げた。
「東京生存者拠点の方々ですね。九条冬真様の管理区域から参りました。敵対の意思はありませんので、身体検査をしていただいて構いません」
日本語だった。
第33話 美咲からの置き手紙 美咲の置き手紙が見つかった旧避難施設へ向かうことが正式に決まったのは、翌朝、まだ東の空が白み始めたばかりの時間だった。 前夜のうちに現場を確保した捜索班から周辺写真と簡易報告が届き、建物の近くに大型AI部隊が潜伏している可能性が低いことも確認されている。それでも高城は、夜明け前に先行班を一度走らせ、安全確認を終えてから蓮たちを出発させた。 以前の蓮なら、その慎重さを「遅い」としか思わなかったかもしれない。 今は必要な手順だと理解している。 理解していることと、焦らずにいられることは別だったが。「あとどれくらい?」 移動車両の後部座席から尋ねると、助手席の伊藤が振り返りもせずに答えた。「二十分くらいです。それ、さっきも聞きましたよ」「さっきは二十五分って言ってた」「五分走りましたからね」「そういうことを聞きたいわけじゃないんだけどな」「道が気を利かせて急に短くなることはありません」 隣に座っていた澪が、膝の上に置いた杖を軽く押さえながら笑った。「諦めなさい。何度聞いても到着時間は縮まらないわよ」「分かってるけど、三日前まで美咲がいたかもしれない場所なんだぞ。落ち着いて座ってろって言われるほうが無理だろ」「それは分かってる。でも、到着する前に車のドアを開けたりしないでね」「しないよ。俺を何だと思ってるんだ」 前の席から高城が即座に答えた。「妹の偽信号を見つけた途端、一人で突っ走って罠に飛び込んだ男だと思ってる」「まだ言う?」「まだ同じ癖が残っているうちは言う」「反省してるって。肩の傷が痛むたびに嫌でも思い出すんだから、もう十分だろ」「なら今回は大人しくしていろ」
第32話 境界を斬る機械 第32話 境界を斬る機械 神崎美咲の署名が入った置き手紙が見つかったという報告を聞いた瞬間、蓮の頭から人工魔法型のことはほとんど消えた。 三日前まで妹が生きていた可能性が高い。それだけでも、今すぐ現場へ向かいたい理由としては十分すぎる。しかし蓮は椅子を蹴って立ち上がることも、通信室の出口へ走ることもしなかった。代わりに両手を机へ置き、落ち着かない自分を押さえ込むように一度だけ大きく息を吐いた。「三浦、その紙を見つけた班には、周囲をできるだけ触らないように伝えてくれ。紙だけ持って帰ってくるのもなし。足跡や荷物の跡が残っているなら、先に全部記録してほしい」 三浦が意外そうに蓮を見た。「ずいぶん慎重になりましたね」「その言い方やめて。前の俺が何も考えてなかったみたいじゃん」「実際、妹さんの偽信号を見つけた時は一人で飛び出しましたよね」「あれは反省してる。ものすごく反省してるから、わざわざ掘り返さなくていい」 横にいた澪が小さく笑った。「反省できるなら大したものよ。以前のあなたなら、『罠でも本物でも行けば分かる』とか言って飛び出していたでしょうし」「俺、そこまで馬鹿だった?」「私が答えていいの?」「やっぱり聞かなかったことにする」 少しだけ笑いが起こったことで、張り詰めていた空気が和らいだ。 三浦は現場から送られてきた写真を拡大し、置き手紙の文字と過去の避難者登録票を並べた。美咲本人が記入した可能性の高い書類は何枚か残っている。字そのものは特別きれいでも特徴的でもないが、同じ名前を何度も書けば癖は出るものらしい。「完全な筆跡鑑定は無理です。ただ、『崎』の右側の崩し方と、『美』の最後の払い方はかなり似ています。それから数字の六を書く時、上の輪が小さくて全体が少し右へ傾く癖も一致しています」 蓮は画面をじっと見つめた。「美咲だと思う」 高城がすぐに釘を刺
第31話 機械の魔法使い 東京で最初の人工魔法型が確認されたのは、浄水設備の第二系統がようやく安定運転へ入り、拠点内で「週に一度なら入浴日を作れるかもしれない」という話が出始めた翌朝だった。 その日は珍しく、神崎蓮も朝から少し機嫌が良かった。「本当に風呂、作るんだよな?」 通信施設の簡易食堂で、硬い保存パンをスープへ浸しながら尋ねると、向かいに座っていた天城澪は露骨に嫌そうな顔をした。「まだ決定してない。水量と燃料と排水設備の確認が先。それから、私は給湯器にはならない」「何で先にそれ言うんだよ」「昨日からあなたが三回言ったから」「子供優先なら少しくらい協力しても」「魔力を生活用に使うのが嫌なんじゃなくて、千人分のお湯を私一人で沸かす前提なのが嫌なの。あなたも火魔法を使えるんだから、自分でやればいいでしょう」「俺の火、細かい温度調整苦手なんだよ」「知ってる。だから浴槽を沸騰させる前に練習して」「さすがに人が入ってる時にはやらない」「空の浴槽なら燃やしていいみたいに言わないで」 少し離れた席で食事をしていた高城が、呆れたようにこちらを見た。「朝から風呂の話でよくそれだけ揉められるな」「大事だろ。俺、地球帰ったら最初にやりたかったことの一つが風呂だったんだぞ」「他は」「家族に会う。白いご飯食べる。コンビニ行く。エアコンの効いた部屋で寝る」「ずいぶん庶民的な勇者だな」「元勇者。それに、二十二年も異世界いたら高級料理よりコンビニのおにぎりのほうが恋しくなる時あるんだよ」 澪が少し笑った。「分かる」「お前も?」「私はカップ麺」「大魔法使いが帰還後に食べたいものとしては夢がな
第30話 東京に灯りが戻る 東京に灯りが戻った翌朝、神崎蓮は仮設給水所の蛇口の前に立ったまま、しばらく動くことができなかった。 昨日の夜から水が出るようになったことは知っている。自分も奪還作戦に参加し、古い浄水施設のポンプが動き始めたという報告を聞いていたし、技術班が夜通しで配管を繋いでいたのも見ていた。それでも、錆の浮いた蛇口を捻っただけで透明な水が流れ出してくる光景は、蓮が想像していた以上に胸へ響いた。 異世界で二十二年を過ごしてきた蓮にとって、水を得ることは決して当たり前ではなかった。井戸まで何キロも歩かなければならない村もあったし、長い遠征の途中では飲み水を一口ずつ分けたこともある。それでも、地球へ帰ればもうそんな暮らしをしなくていいと、どこかで勝手に思い込んでいた。 帰ってきた地球は、異世界よりずっと水が遠い場所になっていた。「さっきから何を見ているんですか」 後ろから声をかけられて振り向くと、美奈が大きな洗面器と清潔な布を抱えて立っていた。朝から医療区画を回っていたらしく、目の下には薄い隈がある。それでも、以前より顔色は少し良く見えた。「水」「それは見れば分かります」「いや、そうじゃなくてさ。蛇口を捻ったら水が出るって、すごいことだったんだなと思って」「文明が壊れる前に気づいてください」「七年前の俺に言ってくれよ」「七年前のあなたに会ったことありませんから」 美奈は呆れたように言いながら、蓮の肩の傷を確認した。「それより顔を洗ってください。昨日の戦闘からまともに洗っていないでしょう」「水、使っていいの?」「そのために復旧させたんです。もちろん使い放題ではありませんけど、衛生を保つための水まで節約して感染症を増やしたら本末転倒です」「風呂は?」「まだです」「聞く前に断るなよ」
第29話 人間を誰が管理する 九条冬真から直接通信の申し入れが届いたのは、東京第二次奪還作戦から四日後の夜だった。 浄水設備の応急復旧が進み、簡易配水管から拠点内へ水を送れるようになったことで、人々の生活はほんの少しだけ落ち着きを取り戻していた。まだ蛇口を捻ればいつでも飲み水が出るという状態ではない。それでも一日に決められた時間だけ給水できるようになっただけで、洗濯された衣類が干され、子供の顔から埃が減り、食事の鍋を洗うための水を惜しまなくて済むようになった。 そんな変化を眺めながら、蓮は通信室の椅子へ腰を下ろした。「俺だけ?」 三浦が機器を確認しながら答える。「九条さんからは一対一の希望が来ています。ただし完全な個人通信にはしません。こちらでは高城さんと澪さんが別室で聞いています」「一対一じゃないじゃん」「安全対策です」「冬真には言った?」「こちらの条件として伝えてあります」「怒らなかった?」「『当然だ』と」「本当に面倒くさいな、あいつ」 澪の声が天井の小型スピーカーから聞こえる。『あなたもかなり面倒よ』「別室なのに会話に入ってくるなよ」『聞いてるだけとは言ってない』「一対一感が完全になくなった」 三浦が苦笑しながら最終確認を終えた。「繋ぎます」 画面が一度暗くなり、ノイズが走る。 数秒後。 九条冬真が映った。 前回は音声だけだったため、蓮が顔を見るのはほぼ初めてだった。 年齢は三十歳前後。 黒い髪。 整った顔立ち。 ただし、いわゆる王族のような豪華な服を着ているわけではない。黒い戦闘服の
第28話 九条冬真の国 東京第二次奪還作戦から三日後、九条冬真の使者は白旗を掲げてやって来た。 ただし、馬にも車にも乗っていなかった。 朝の監視班から「西側道路に人影あり」と報告を受けた高城が防衛班を配置し、蓮と澪も念のため地上へ出ると、廃墟の道路を一人の女性が歩いてきたのである。年齢は三十歳前後。濃紺の防寒服に小さなリュックを背負い、右手には白い布を巻きつけた長い棒を持っている。銃も剣も見える範囲にはない。「一人?」 蓮が隣の高城へ尋ねた。「見える範囲ではな」「逆に怖くない?」「俺もそう思ってる」 女性は防衛班が設定した停止線まで来ると、素直に両手を上げた。「東京生存者拠点の方々ですね。九条冬真様の管理区域から参りました。敵対の意思はありませんので、身体検査をしていただいて構いません」 日本語だった。 当たり前ではあるのだが、帰還者同士の通信では翻訳機を通すことが増えていたため、蓮には妙に新鮮に聞こえた。「名前は?」 高城が聞く。「榊原千尋。三十一歳です。以前は地方自治体で防災関係の仕事をしていました。今は九条様の管理区で物資配分と対外交渉を担当しています」 蓮は澪へ小声で尋ねた。「管理区って自分たちでも言うんだな」「聞こえてますよ」 千尋が普通に答えた。「ごめん」「いえ。こちらでも、その呼び方を嫌う人はいますから」 思っていたより話しやすい。 もっと黒い服を着た無表情な部下が「魔王陛下のお言葉である」とでも言い出すのかと、蓮は勝手に想像していた。「九条本人は来ないの?」「現在、北側防衛線に出ています。AI部隊との小規模戦闘が続いていますので」